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深度揭秘:漢字對日語的影響

信息來源:本站  日期:2016-12-27   

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 日本に漢字が伝わったのは、古事記によれば、百済から渡來した和邇(王仁)が論語十巻、千字文一巻を応神天皇に獻じたのが始まりだということになっている。そうとすれば、四世紀か五世紀の頃ということになるが、古事記のこの記述は現(xiàn)在では信頼できないとされている。というのも千字文が書かれたのは、六世紀のことだからである。

根據(jù)《古事記》的記載,從百濟來日的和趰(王仁)向應神天皇獻上《論語》十卷、《千字文》一卷,此即是漢字在日本傳播的開端。如果是這樣,那么時間就是在四世紀或五世紀左右。然而現(xiàn)在卻認為,《古事記》的這段記載可信度并不高。因為《千字文》成書的年代是在六世紀。

ではもっと後の時代のことかといえば、そうではないらしい。その手がかりを、福岡県の志賀島から徳川時代に発見された有名な金印が與えてくれる。承知のようにこの金印には「漢倭奴國王」と刻まれている。この金印は漢代の官印のひとつであって、後漢の光武帝が紀元57年に漢倭奴國王に下賜したものだということが分っている。

那么,漢字的傳入就是在更往后的時代吧,其實也未見如此。而德川時代出土于福岡縣志賀島的著名金印給我們提供了線索。眾所周知,這顆金印上刻有"漢倭奴國王"字樣,屬于漢代的一種官印,我們也知道,它是東漢光武帝于公元57年賜給漢倭奴國王的物品。

漢倭奴國王が誰かについては諸説あって定まりがないが、當時日本列島に存在していた多くの王國の一つなのだろうというのが、有力な説である。漢書地理志には「夫れ楽浪海中に倭人あり、分かれて百余國をなす」とあり、大和朝廷が日本を統(tǒng)一する以前には、日本列島には多數(shù)の國があって、分立していたことを推測させる記述である。

關于漢倭奴國王是誰的問題,大家說法不一,不過可以確鑿說,倭奴國應是當時日本列島諸多王國中的一個!稘h書地理志》中寫道,"夫樂浪海中有倭人,分為百余國",從這段記錄可推測出,在大和朝廷統(tǒng)一日本以前,日本列島處在多國林立的分裂狀態(tài)。

後漢の光武帝は、そうした國のひとつである倭奴國の國王に、この官印を下賜したわけであるが、この事実は、それを受け取った側(cè)に、漢字を読むことのできたものが存在したことを推測させる。つまり、大和朝廷が日本を統(tǒng)一する以前から、日本には漢字を理解するものがいたらしいのである。

這些國家中有一國叫"倭奴國",東漢光武帝把官印賜給了倭奴國的國王。由該史實可知,在當時接受金印的地方,已經(jīng)存在能夠閱讀漢字的人。也就是說,早在大和朝廷統(tǒng)一日本之前,日本就已經(jīng)有能理解漢字的人了。

石川九楊という人の推測によれば、日本に最初に漢字が伝わったのは、紀元前200年くらいに遡るという。

石川九楊推測,漢字最早傳入日本的時間可上溯到公元前200年左右。

日本語と漢語(漢字)の関係を取り上げるとき、古代日本語の確固とした體系の上に漢字が伝來し、話し言葉としての大和言葉に、書き言葉としての漢字の體系がかぶさったと理解するのが普通である。つまり漢字伝來以前にはすでに、話し言葉としての古代日本語が確立されていて、漢字はそれに書き言葉の手段、つまり文字を提供したと理解するわけである。

在談論日語與漢語(漢字)之間的關系時,我們一般都認為,漢字是在古代日語形成一定體系之后才傳入的,大和語言形成了口語,漢字體系在這個基礎上發(fā)展為書面語,這即是說,在漢字傳入之前,古代日語就已作為口頭語言得到了確立,漢字為其提供了書面語的手段,也就是提供了文字。

筆者なども実はそう考えていた一人であるが、石川九楊はそんなに単純なものではないという。彼によれば日本に漢字が伝來したのは彌生時代の後半であるが、その頃の日本には、民族全體に共通するような言語はまだ成立していなかったのではないか。同じものでも、地域によっては違う名で呼んでいたのではないか。それが長い時間をかけて共通の言葉に練り上げられていく。石川は、その過程で漢字が決定的な影響を及ぼしたのではないかと考える。

實際上,筆者也持有上述觀點,然而石川九楊則認為,事情并非那樣單純。在他看來,漢字傳入日本是在彌生時代后期,在那個時代的日本,全民族的通用語言還沒有形成。同一樣事物在不同地區(qū),往往有不同的稱呼。經(jīng)過了很長時間,眾多不同語言才逐漸融合成共通的語言。石川認為,在這個過程中,漢字所帶來的影響是決定性的。

漢字に接した最初の日本人は、それを中國人と同じように発音していたに違いない。だがそのうちに、漢字が持つ表意文字としての性格に著目し、ひとつひとつの漢字に日本風の呼び名を當てはめ始めた。たとえが「山」という字は中國読みでは「サン」であるが、日本人はそれに日本風の名前、「やま」をあてがった。

可以確定,最初接觸漢字的日本人也在漢字讀音上模仿中國人。在這個過程中,漢字所具有的表意文字的特點得到注目,于是人們開始為每一個漢字對應日本固有的讀法。比如"山"這個字按漢語讀作"サン",而日本人則用日本固有的讀法"やま"對應"山"。

こうしてさまざまな漢字に日本風の読み方をあてがう作業(yè)をおこなううちに、あてがうべき名前の標準化作用のようなものが行われたのではないか。

于是,各種各樣的漢字都被配上日本固有的讀音,很有可能在這個過程中,選定某一種標準讀音的活動也隨之進行起來了。

おそらく彌生時代には、山を言い表すことばは「やま」だけでなく、ほかにいくらもあったかもしれない。だが「やま」という名前が漢字の「山」の日本風の読み方を代表するようになると、そこに言葉の標準化が成立する。山に限らず多くの言葉に同じような現(xiàn)象が働き、日本語全體が標準語の形成に向かって進んでいったのではないか。

在彌生時代,表示"山"的讀音恐怕有許多,并非"やま"一種,而在"やま"成為漢字"山"的日本讀音后,語言的標準化就得以成立了。不僅是山這個字,其它還有許多詞語也發(fā)生了同樣的現(xiàn)象,整個日語就在這個過程中形成了一種標準語。

だが彌生時代の日本人には、漢字をこなせる人々はまだ限られていただろうから、上のような作用が大々的に生じるのは、もっと後のことだったろうとも思われる。石川九楊は、飛鳥時代から奈良時代にかけてがその時期だったといっている。その時代の日本人が漢字を大がかりに吸収し、それを日本語の不可欠の部分として組み入れていったのではないかというわけである。

不過,對彌生時代的日本人而言,熟練掌握漢字的人還十分有限,因此上述現(xiàn)象的大量產(chǎn)生可能還是在更后的時代,石川九楊認為是飛鳥時代到奈良時代之間的時期。在這個時代,日本人對漢字進行了大規(guī)模引進,將其吸收進日語,使得漢字成為日語中不可缺少的一部分。

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